銀幕デビューから八十年 女優 原節子のすべて

 

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原節子原節子 略歴
◆1920年6月17日、二男五女の末子として、神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町(現・横浜市保土ヶ谷)に生まれる。本名は会田昌江(あいだまさえ)。小学校時代には、特徴だった目の大きさから「五センチ眼」というあだ名をつけられたほど、日本人離れした顔立ちは目立っていた。将来の夢は学校の先生になることだった。34年、姉・光代と結婚した熊谷久虎の勧めで、女学校を中退し、14歳で日活多摩川撮影所に入所。翌年のデビュー作『ためらう勿れ若人よ』の役名の「節子」をそのまま使い芸名となる。36年、山中貞雄監督に乞われ『河内山宗俊』に出演。その撮影中に、日独合作映画のヒロインを探していたアーノルド・ファンク監督の目に留まり『新しき土』(37年)への出演が決まる。映画は大ヒットし、一躍スターダムにのし上がる。世界公開のためドイツに向けて出発した際は、空前と言われたほどの見送りの群衆が東京駅に殺到したという。同年、熊谷と共に日活を退社、J・Oスタジオ(東宝の前身)へ移籍。戦争中は『ハワイ・マレー沖海戦』(42年)をはじめ、『望楼の決死隊』(43年)などの戦意高揚映画に出演。戦後、黒澤明監督の『わが青春に悔なし』(46年)のヒロインに抜擢、大ヒットした今井正監督の『青い山脈』(49年)なども含め戦前とは一転し、戦後民主主義を体現するスターとなる。47年、東宝争議を経てフリーの女優として独立する。戦後の華族の没落を描いた吉村公三郎監督『安城家の舞踏会』(47年)、木下恵介監督の傑作コメディ『お嬢さん乾杯』(49年)など実力派監督の作品に次々と出演し、日本女優を代表する不動のスターになる。49年、初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。以後、61年の『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演。『晩春』、『麦秋』(51年)、『東京物語』(53年)は演じた役名がすべて紀子で「紀子三部作」と呼ばれる。とりわけ『東京物語』は小津監督の最高傑作となり、原節子もまたこの作品で女優として頂点を極める。その53年には『白魚』(監督は義兄の熊谷)の御殿場駅での撮影中、原の眼前で実兄でカメラマンの会田吉男が列車にはねられ事故死する。この事件の直後にクランクインしたのが『東京物語』だった。54年、長年の撮影での強いライトによる照明から白内障を患い、通院を繰り返す。復帰後第1作『ノンちゃん雲に乗る』(55年)で初めて母親役を演じる。61年最後の小津作品となった『小早川家の秋』を宝塚で撮る。62年、稲垣浩監督による東宝創立三十周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が封切られ、原は大石内蔵助の妻りくを演じた。原は当時42歳で、これが最後の出演作品となった。◆63年12月12日、小津が60歳の誕生日に死去。その通夜に出席したのを最後に、表舞台には一切姿を見せなくなった。引退宣言も何もないまま銀幕から消えていった。現在にいたる50数年間、世間との関わりを一切断つ生き方は謎を呼び、「伝説の女優」となった。2000年の「20世紀の映画スター・女優編」(キネマ旬報社刊)で日本女優の第1位に輝くなど、今尚その人気は衰えることはない。 現在もご健在で、鎌倉市で親族と暮らしているという。 6月17日、95歳を迎える。

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