生誕101年 小林正樹映画祭

 

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小林 正樹監督小林 正樹監督 略歴
◆1916年(大正5年)2月14日、北海道小樽市生まれ。父と女優の田中絹代は従妹の関係で、35年、第一早稲田高等学院文科に入学した際は、田園調布の田中邸の隣に転居した。 37年に會津八一教授の授業に感銘を受け、翌38年、早稲田大学文学部哲学科に進むと共に會津教授の下で東洋美術を学ぶ。このとき敦煌石窟美術の真髄に触れ、美意識の形成に大きな影響を受けたことが、後の井上靖の小説『敦煌』映画化への意欲にも繫がっていく。 41年、大学卒業後に松竹大船撮影所に入所するも、翌42年1月に応召。3月には満州へ渡る。終戦は宮古島で迎えたが、米軍の労働要員として沖縄本島嘉手納捕虜収容所に移され、46年11月21日にようやく復員。この時期の過酷な体験が、彼の徹底した戦争反対の意思を露にした反骨の映画人生の根幹ともなっている。 松竹大船撮影所に復職後は『不死鳥』(47)から『日本の悲劇』(53)まで木下惠介監督の組に助監督として就き、『破れ太鼓』(49)では脚本も木下と共に担当した。実に気の利く助監督で、逆にそれがカンに触って木下監督を怒らせることもしばしだったというが、木下は小林の才能を高く買っており、52年の監督デビュー作となった中編『息子の青春』の仕上がりを見て、彼のために53年『まごころ』の脚本を手掛けた。 松竹時代の小林正樹は、大船調メロドラマ路線の中で、人生における理想と現実のギャップに着目しつつ、それでも人はいかに純粋な想いをもって対峙していくべきかを問いかけ続け、いつしかそれは戦争や理不尽な社会の仕打ちに対する意見具申とも結びついていった。その萌芽がBC級戦犯を扱った『壁あつき部屋』(53/公開は56年)であり、『人間の條件』6部作(59~61)であり、『切腹』(62)であった。 その後も『怪談』(64)、『上意討ち 拝領妻始末』(67)などで海外でも高い評価を受けるようになった彼は、世界十大監督のひとりとして71年度カンヌ国際映画祭25周年記念監督功労賞を受賞するなど名声を高めていくが、同時に完璧主義者としての姿勢ばかり強調されて寡作となっていき、しかも『敦煌』映画化目前にして、製作サイドとの方針の食い違いを生じて断念せざるをえなくなり(その後、深作欣二監督に交代となるが、彼もまたその任をまっとうすることができず、最終的に佐藤純彌監督が88年にようやく完成させた)、宿願が果たせなかったことは惜しまれる。 1996年10月4日、永眠。翌97年、毎日映画コンクール特別賞と日本アカデミー賞協会会長特別賞が授与された。

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