黒澤明 略歴
1910年(明治43年)3月23日、東京都品川区東大井で8人兄弟の末っ子として生まれる。6歳のとき父に連れられ初めて活動写真を見る。28年、京華学園中学校卒業後、画家を志し二科展に出品した絵「静物」が入選する。その後、絵に没頭しきれぬまま文学、演劇、音楽、映画とありとあらゆる物を見て、日本プロレタリア美術家同盟に参加。映画館で解説者となっていた兄の影響で、数多くの映画を見る。36年、P.C.L映画製作所(現・東宝)の助監督募集に採用され、山本嘉次郎監督に師事。『藤十郎の恋』『綴方教室』でチーフとなり、『馬』では主演の高峰秀子とロマンスが噂される。40年、情報局国民映画脚本に応募し「雪」の脚本で情報局賞を受賞、賞金2000円をもらう(当時の月給は48円)。41年、「達磨寺のドイツ人」のシナリオが映画評論に掲載され、自らの手で映画化される企画が立てられたが、内務省の検閲を通らず中止になる。43年、33歳という異例の早さで監督に昇進し初監督作品『姿三四郎』公開、大ヒットとなる。45年2月、加藤喜代(『一番美しく』の主演女優・矢口陽子)と結婚(媒酌人は山本嘉次郎夫妻)。50年、『羅生門』公開、51年ヴェネチア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)、米アカデミー賞特別賞(最優秀外国語映画賞)を受賞。日本映画を全世界に注目させるきっかけとなり、世界にクロサワの名を知らしめた。52年の『生きる』以来、小國英雄、橋本忍らとの集団での脚本執筆を行い、数多くの傑作を手がけて行く。54年、1年以上の製作期間と大規模な製作費をかけた時代劇超大作『七人の侍』が公開され大ヒット。そのストーリー、撮影技術において日本映画界の最高傑作と評され、世界の映画人・映画作品に多大な影響を与えた。57年、第1回ロンドン映画祭にジョン・フォード監督と共に招かれ初めて渡欧。オープニング作品として『蜘蛛巣城』が上映される。58年、黒澤初のシネスコ作品『隠し砦の三悪人』を半年がかりで撮る。第9回ベルリン映画祭銀熊賞、国際映画批評家賞を獲得し、興行も成功したが、撮影日数、製作費大幅超過のため東宝から独立して黒澤プロダクションを主宰することになる。以後、東宝=黒澤プロ提携で収支分担となった。黒澤プロ第1作『悪い奴ほどよく眠る』(60年)は汚職を題材に復讐鬼の物語とし、次いでは時代劇『用心棒』(61年)、毎日映画コンクール日本映画賞の『椿三十郎』(62年)、誘拐事件を扱って各映画賞を総なめした『天国と地獄』(63年)など大ヒット作を連発。『用心棒』で主演の三船敏郎がヴェネチア国際映画祭最優秀男優賞を受賞。『天国と地獄』と65年の『赤ひげ』では興行収入1位を記録した。69年、木下惠介、市川崑、小林正樹、黒澤明の4人で“四騎の会”を結成。75年、ソ連との合作『デルス・ウザーラ』を公開。80年、『影武者』は配収27億円という日本記録達成。83年、「黒澤フィルムスタジオ」を神奈川県横浜市に開設。85年、『乱』興行収入3位。この年、妻・喜代死去(享年63)。また、映画界初の文化勲章受章。86年、米アカデミー賞授賞式に出席し、ビリー・ワイルダー、ジョン・ヒューストンと共に作品賞のプレゼンテーターを務める。90年、黒澤明を師と仰ぐスティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカスが製作協力し、ワーナー・ブラザースが世界配給を受け持つというスケールの大きさで、監督自身の夢を描いたオムニバスドラマ『夢』公開。第62回アカデミー賞特別名誉賞受賞。95年、京都の旅館で「雨あがる」脚本執筆中に転倒し、3カ月間の入院後、自宅でのリハビリを余儀なくされる。97年に三船敏郎が77歳逝去、翌98年9月6日、東京都世田谷区の自宅で脳卒中により逝去、享年88。同年10月1日、映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞、99年には米週刊誌『タイム』アジア版で「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選ばれた。2013年、全米脚本家組合から小国英雄、橋本忍、菊島隆三と共に外国の優れた脚本家に贈られる「ジャン・ルノワール賞」受賞。黒澤作品こそ日本のすべての若者たちに見せたい文化遺産である。