vol.1 シネ・ヌーヴォのある街。

 

 

かつて映画館は街の中で一つの風景をかたち作っていた。それは、看板とかポスターとか、映画館を取りまくいろいろなものによってそうなってもいたのだが、やはり一番大きいのは、街路に向かって開かれた入口のなかが暗くなっていたからであろう。いわば、闇の中の別世界への通路が、街にぽっかり口を開いているという光景が、独特の風景を作っていたのだ。
その点、80年代以降あたりまえになったビルの中の映画館というのは、風景としてどうしても弱くなる。いろいろ雑多なお店が並んだ中を、エレベーターなどに乗って上がってゆくとなると、闇への通路という映画館のどこか怪しい吸引力が失われてしまうのだ。だから、東京は池袋の文芸坐が改築のために閉館したというニュースに接して、建物の耐久年数や経済効率から考えて当然だろうと思う一方で、たんに子供の頃から親しんできた場所が消えることに対する寂しさ以上の切ない思いがするのは、いずれビルとして再生するであろう文芸坐に、果たして映画館のあの独特な風情が生き延びるであろうかと思うからである。
幸い、シネ・ヌーヴォは一階だという。入口に四季の草花が咲き、アプローチから中にかけて、写真で見ても、いかにもお洒落で清潔そうで、その点では、わたしのような50男がガキの頃から馴染んできた映画館とは、いささか趣が違うようだが、しかし、「映画新聞」や維新派の面々が力を合わせて作った映画館が、たんにいまどきのお洒落で清潔な映画館にとどまるはずはない。
聞けば、改築するにあたってのコンセプトは、“水中映画館”だというが、これぞ、かつて水の都だった大阪にふさわしいと同時に、水中都市という異世界の感触もある。だとすれば、水の都の水を虐待し続けた街に、水中映画館としてのシネ・ヌーヴォが新たな水源となるやもしれないではないか。あと必要なのは、時間である。フィルムをかけ、巻き戻す時間を積み重ねるうちに、シネ・ヌーヴォは、いよいよ潤いを増していくに違いない。わたしは、遅蒔きながら、4月に初めてここを訪れることになるが、そのときは、美味しい地ビールを水がわりに頂くとして、映画館のバーで呑むのにもっとも似合いそうなアイリッシュ・ウィスキーの一瓶でもぶら下げて行いこう。新しい映画館に乾杯するために。

 
 

上野 昻志(批評家・映画評論家)1997年4月号