|
1951年6月、疎開先の新潟から東京に帰ってきた田中鞠子は、東宝のプロデューサーだった叔父の勧めで、東宝演劇研究所に入る。そして、入所後20日足らずで、成瀬巳喜男監督の『舞姫』に出演することになる。谷崎潤一郎命名による岡田茉莉子として。この新人として異例のデビューは、18歳の彼女の日本人離れをした美貌によるものだろうが、彼女自身も周りも、あの岡田時彦の娘ゆえの抜擢と捉えていた。茉莉子自身は、それが重荷で、嫌でたまらず、女優を辞めたいと母に訴えたという。自分が自分でなくなる怖れと、それに対する抵抗、岡田茉莉子は、そこから出発した。
撮影所では、明るく振る舞い、その結果、物おじしない「アプレゲールのお嬢さん」と呼ばれるようになったが、それも演技。映画の中でも外でも、自分ではない自分がいて、それを、もう一人の自分が見ていると自覚したとき、岡田茉莉子は、女優になったのだろう。そんな彼女を、世間が、紛れもないスターとして認めたのは、『芸者小夏』だ。それがヒットしたことに満足したものの、以後、それに類するような役が続くのに、彼女は飽き足りない想いを抱く。そして、『浮雲』で、高峰秀子も森雅之も、役柄を超えた彼ら自身を表現していることに気付き、岡田茉莉子自身を表現したいと思う。
1957年、岡田茉莉子は、自ら撮影所長に申し出てフリーになる。松竹大船で『土砂降り』を撮ったあと、従来の受け身の女性像を一新するようなメロだラマの女性を演じるようになる。そんな彼女を、監督第1作に起用したいとシナリオを送ったのが、吉田喜重だ。岡田は、出演を快諾したが、別な撮影と重なって出来なかった。だが、『ろくでなし』に感嘆した彼女は、岡田茉莉子百本記念映画の監督として吉田喜重を指名する。フリーになった吉田と行を共にして以後、岡田茉莉子は、さらに自立した女性像を表現していく。岡田茉莉子は、常に、自ら新しい道を切り開いていく女優なのだ。
|
|